8月6日は広島に原爆が落とされた日です。
今年で75年になります。
父の事を何度も書いて来ましたが、今年は違うお話をしてみようと思います。
被爆2世として、話を継ぐ義務があると思ってるから。
では。
私が新婚の頃。そう、可愛くて若くてぴちぴちだったころ。(鉄板ネタ)
広島の安佐動物園のずっと下の方に住んでいました。
その賃貸マンションの裏には公園や一戸建てがあり、幼い息子との公園の行き来や
散歩などに毎日のように通ったものです。
その中の古い平屋の家に70才代と思われる女性が、住んでおられました。
その方はいつも乳母車をひいておられます。
よくある、腰の痛い方が買い物の為に持って歩くようなものではなく、
ちゃんとした乳母車。
それが不思議で、お孫さんの面倒でもみていらっしゃるのかなと思って、のぞいてみると・・・
そこには、ポポちゃんやメルちゃんのような玩具的なお人形ではなく、
赤ちゃんの等身大のようなリアルな人形でした。
しかも、顔など薄汚れていて時代を感じる人形です。
霊感の若干ある私は、その人形を見て体中の毛が逆立ちました。
そこで、顔を引きつらせながら「あら・・・赤ちゃんかと思ったらお人形さんなのですね?」
というと、その女性は、ニコニコしながらこうおっしゃいました。
「これはね、私のお姉ちゃんなんよ。お姉ちゃんは電車に乗って
仕事にいきょうった(行っていた)途中にのぉ・・・十日市でピカにやられたんよ。
今日はのぉ、ちーと(少し)あついけぇ手袋もレースで編んだんよ。ねぇお姉ちゃん」
と言いながら顔を撫でておられました。
腕時計らしきものもあったので
私「時計もしとっちゃったんじゃね(つけておられたのね)」
女性「ほうよ、(そうよ)こりょぉ(これを)しとったんよ。ほいじゃけ(だから)8時15分で時間が止まっとるじゃろ」
完全に、その女性は原爆で亡くなったお姉ちゃんと会話をしておられました。
その人形の中にはお姉ちゃんの魂が入っていました。
計算すると、その女性は当時20歳すぎ、おそらくお姉ちゃんはもう少し上だから
お二人とも若くてとてもいい時代を過ごしておられたはずなんです。
あの当時、女性がキャリアウーマンとして働いておられたという事は、良い所へお勤めだったのでしょう。
十日市といえば、ほぼ、爆心地に近い所です。原爆ドームよりも爆心地に近い所です。
あそこの路面電車の中は一瞬だったと想像できます。
その一瞬でその姉妹は切り裂かれ、お姉ちゃんは人生を終えてしまった。
何も悪いことなどしていないのに・・・。
そしてその妹さんは、その悲しみを人形をお姉ちゃんの代わりにすることで、
どうしようもない怒りや悲しみの心のバランスを取ってこられたのでしょう。
数十年という年月を・・・・。(40年くらいだと想像します)
何年経っても、何十年経っても、悲しみは癒える事無く
昨日の事のように思い出される家族の風景が、
記憶の時間が動く事なく、そこに漂っているんです。
広島は35万人が住んでいました。
当時の即死も入れて、2か月から4か月以内に被爆が原因で亡くなった方が9万人から16万人おられるそうです。
その後、被爆の後遺症に苦しんだ人や、ガンの発生率が高いと言われる身体を抱えて、そして実際にガンになったうちの父のような被爆者を入れると一体どれだけの人数になるんだろう。
そのお姉ちゃんの形見があったという事は、身元不明者ではなかったようですが、
未だにどこで亡くなったか分からない方は・・・いや、そのほとんどが身元不明者だと想像します。
父が、次から次にやってくる死体をはすかいに重ねて燃やして埋めた。
と言っていましたから・・・。
そしてあの元安川(原爆ドームの前の川)には、今でも沢山の身元不明者の骨が埋もれていると言われています。
人間の手によって殺された数万人の命の事をどうか、思い出してください。
全ての命が、核によって失うような世界にしてはいけないのです。
人口のほぼ半分の方が亡くなった広島
その中で生き抜いた父から授かった命。
私の命に感謝と亡くなった方々の追悼を兼ね、黙祷。
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