繋ぐ・・・。

昨日、胸騒ぎがして、検索したんです。

検索したのは、私が一番最初に音楽を習った先生。

お寺が経営する保育園に行っていた頃、当時はそういう所に

ヤマハ音楽教室が入ってたんです。

私は、字も読めない頃、まだ募集していない3歳くらいの時に自分で行きたいと親に直談判したみたいで・・・ヤマハのバッグに赤いリボンをしてもらって「これがのぶちゃんのよ」

と行き始めてそこで講師をされていた先生が私の最初の先生でした。

やがてすぐに先生は結婚で辞められることになり、私はその先生の自宅まで通うことになったのです。バスにのって、まだバスに乗って歩く事20分。

片道1時間かかる広島の比治山という所のふもとでした。

なかなか当時はド派手な先生で(カリスマ性があったともいう)

先生のご自宅は、お嬢さまだったのか、お高いエレクトーンと、白いグランドピアノとその奥にアップライトピアノがありました。

なぜか、白い袖口がひらひらのブラウスと濃い色の裾までのロングスカートでレッスンしておられました。

発表会はドレスのお着換えもされてましたね~・・・(笑)

私はそのヤマハ音楽教室でエレクトーンを弾いていたので、安い15万くらいのエレクトーンを買ってもらって(その前はオルガン、その前は タイルを鍵盤代わりに)エレクトーンを習い始めました。

当時私は音が読めなくて、それは先生はご存知ではありませんでした。

なぜか・・・

それは私が先生のお手本を一度で覚えていたから(笑)結構長い事・・・

エレクトーンはいろんな音が出て、リズムが出て、それはそれは魅力的な楽器でした。

どんどん上達するものだから(自分で言う)先生がピアノも習ったら?と薦めてくださって、調子に乗った両親はピアノを買ってくれました。

そして、私は小学校の頃から両方を習っていたんです。

ただ、生徒はグランドピアノを弾かせてもらえなくて奥のアップライトでした(笑)

 

ポールモーリアとか、それはそれは美しい曲がエレクトーンにはあり、初めて教則本以外の「きよしこの夜」の楽譜をもらった時はすごくうれしかったのを覚えています。

ピアノもあの頃はみんなバイエルが常識だったけれど、その先生は使われなかったですね~・・・

 

あの頃は、先生が来週はお休みです。と言われたら、「はい」と言い、

研修旅行だからお休みです(海外旅行)と言われても「はい」と言い、

風邪をひいたのでお休みですと言われても「はい」

まぁようするに先生の都合でお休みされても、振替も何もなかった時代ですね。

レッスン中も先生が食事を作るのでと退席されることは日常で(笑)

記号を聞かれて悩んでいたら「もう忘れたの?思い出すまで考えてなさい」と言われ放置・・・(笑)

そしてお月謝は50年前も今と同じくらいでしたから・・・

 

それをピアノとエレクトーンの両方習っていたので普通の子の倍額親は出してくれたわけです。

しかも、エレクトーンもグレードが上に行けばおのずと買い替えないといけないわけで・・・結局親にはエレクトーン3台買ってもらったのかなぁ 最後は125万もするものでしたが・・・ピアノは今リビングにあるものです。

裕福な家庭でもなく、ごく普通の家だったのですが、母が着物を縫う内職をしてそれらをねん出してくれたわけです。

何度か書きましたが、母は苦痛では無かったようです。

楽しみだったと・・・

段々曲が仕上がっていく日々はそれは贅沢な時間だったと・・・

 

それから数名先生は変わりましたが、

音楽の「お」の字を教えてくださった恩師です。

最後にお会いしたのは私がまだ20才くらいの時、相変わらずド派手な先生の

発表会は、クルーズ船で、その発表会のお手伝いに行かせていただきました。

それっきり、私は結婚して転勤して、連絡もせず・・・

そして、昨日検索したら、なんと今年の1月にお亡くなりになってたと・・・

年齢も不詳でしたが、私とちょうど20歳違うのが判明

ということは74才で亡くなられたのですね・・・

そして、当時は先生は23才ということも判明。

半世紀の時間が流れてしまい、もう2度とお会いすることも出来なくなってしまいました。

先生から習った事が土台にあり、今の私がある事のは先生との出会いがあったこそ。

そして

音楽を子供達に繋いでいく道を選んだ私

今の子供たちがこうして最初に習った先生は・・・って私を探してくれる事があるだろうか・・・

なんてね、色々考えてしまいました。

安らかにお眠り下さい。本当にありがとうございました。

合掌

 

 

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