私のルーツ(興味ないって?)

今回 お休みが沢山あったので、衣類の入れ替え、断捨離なども少し出来ましたが、

母ともゆっくり話ました。

以前のブログにお菓子作りを始めた時のオーブンはどうして買ってくれたのか・・・などなどを聞いて来ました。

そして以前から不思議だった事も聞いて来ました。

それは、母の父の事。私の母方の祖父と祖母の事です。

何が不思議だったのかというと、この二人は10人の子供に恵まれました。(母入れて)

だけど、もちろん祖母は専業主婦、そして祖父は 今でいうJR そう、国鉄職員でした。

結局、病気などで4人の子供を失い、6人の子供を成長させたのですが、

どうやって?6人育てたん? 祖父一人の給料で・・・

しかーーも、母はあの時代、お花や日本舞踊を習っていました。母の上の伯母も同じように・・・

それをゆっくり聞いて来ましたよ~~ なんども私、ひっくり返りました。(笑)

まぁ少しだけは知っていたけど、健忘録の為に書いておこうと思います。

祖父も祖父も島根県浜田市唐金(とうがね)という所の出身です、二人は、結婚後あちこち国鉄職員として転勤したようです。大阪とか枚方とか・・・

色々行った末に、広島にたどり着いたそうです。

母は なんと広島生まれでした。(知らなかった・・・)

昭和10年に7番目の子供として生まれたそうですが、広島の駅の近くで9歳まで育った母は

日本舞踊を習ったんですって。

あの時代に(今から約80年前ね)母や伯母に日本舞踊を躍らせる為に、レコードもあり、綺麗な着物も来ていたそうです。

母がいうのには、5歳の頃から習ったと思うけど、昨日の晩御飯が思い出せないのに、その頃踊った踊りも音楽も全て思い出せるそうです。

驚愕ですね。(笑)

小さい頃の教育ってこういう事なんだなぁと思いましたね~

確かに私もこの頃習った曲は楽譜無しで弾けるもの。

そして、戦争が怪しくなった頃、祖父は浜田に帰りたいと希望転勤願いを出したそうです。昭和19年・・・原爆が落ちる1年前です。

そして家族を連れて浜田に返って貯蓄していたもので家を建てたそうですが、

戦争中に家なんか建てて・・・と近所の目は厳しかったとか。

だから安く建ったんですって(笑)そして祖父は背が低かった為に戦争には行かなくてよかったそうです。

浜田は海の近くです。家を建てて船を買ったんだそうです。

あの頃国鉄って有名なくらいお給料は安かったんだけど、祖母のやりくりが上手で貯金もあったのだとか・・・

ケチをしながらも教育費はかけてくれたと母が言っていました。

祖父は、とても趣味の多い人で、その船で釣りに行っては食材を釣ってきて

タンパク質をとり、野菜は庭で作ったんだそうです。

小麦を作ってパン屋さんに持っていくと、ブツブツ交換でパンになったり

イカをつってスルメを干していたら、行商するおばさんが、自分の行商の為のスルメを買いに来ていたそうです。

それで、食費を浮かしたのですね~・・・そしてお金まで(笑)

すごい錬金術(*”▽”)

そして、祖父は手先も器用で、母が「草履が無いよ」というと

藁をあんで、綺麗な端切れを混ぜ込んでとっても綺麗な鼻緒が付いた草履を

朝になったら玄関に揃えてあったと・・・

またそれが、毛糸で編んだワンピースだったりしたそうで、

祖父は夜なべをして、子供のものを作ったりわら仕事をして、朝は早くに釣りに行き

子供たちの朝ごはんはイカの刺身だったそうです。

それから国鉄よ・・・仕事できたんかなぁと心配しますね。(笑)

でもそれがきっと祖父の生きる楽しみだったんだろうなぁと思います。

親にいっぱいかわいがってもらったと母は言います。

休みの日は子供をテーブルに並べて新聞を広げ、字を教えていたそうです。

字はその辺ではちょっと有名なくらい上手な字を書く人でした。

それは私も覚えています。

 

子供が大きくなったら山羊を飼い、子供に面倒みさせてそのヤギの乳を売りにいって

子供の鉛筆代などにしたようです。

そしてたまには祖母がそれを飲んでいたとか・・・(笑)

子供を産んだから子供に飲ませるんじゃなくて自分が飲んで自分の身体を養った祖母の持論です。これもすごい

そうやって、身体を酷使した夫婦ですが、どちらも95歳くらいまで生きました。(笑)

 

だけど、子供を4人も失くしてるんですよね。

田舎へ帰ると祖母はずっと朝に晩に仏壇の前でお経を読んでいました。

そうやって4人の子供の魂を癒し、自分の心の安定の為に日課にしていたんでしょうね。

祖母はよく言っていたようです。

人間はいつ死ぬかわからない。息を吸って、それを吐く事が出来ないともうそれは死という事と・・・

祖母の死生観は、仏壇の前で培われたものなんですね。

それをずっと見ていた母も父や兄が亡くなった時も人間とはこんなもんだと思っていたそうです。

それも祖母の教育だったかもしれません。

 

そうそう、母は浜田に帰ってから お花を習いにいけと言われ行ったそうですが、

田舎に先生がおられるわけでもなく、どうしたのかと聞けば

お母さん達がまとまって町から生け花の先生を呼んで習わせたそうです。

だから母はずっと家で花を飾らない時はありませんでしたねぇ

 

いつもうちには花がありました。

あの生け花を習った事は一生の宝になったと言いました。

今でもお世話になっているデイサービスで花を生けるという仕事を頼まれるそうです。(笑)

畑の草や野の花も混ぜて花を生けるのはとても幸せな時間だったと・・・

例え雑草でも、綺麗な花をみて、あっこれはあの葉っぱと合うとかね、

結局 何でも知ってるとそこで知らない人と差が出るというかね

生きていく楽しみになるんだなぁと思いました。

 

私達が音楽を聴くとああ・・こんな和音でいくんだとか・・・

え?ここはこう弾く?なるほど~~ え?ベースはそういくの?

という観点で観ます(聴きます。)

ただ、音楽を聴いて来た方とは全く違う聴き方をします。

 

花を習っても日本舞踊を習っても同じことが言えるんだろうなぁ

それが子供の頃ってずっと一生違ってくるんだなとも思いましたね~

 

祖父母のお陰で子供達はみんながっちりした体になり、そして早くに肺病などで亡くなった4人の子供以外は、みんな長寿です。

 

祖母と祖父の生きざまを学んだ連休となりました。

自分のルーツが見えたようで、なんだか心が落ち着きました。

でもあの時代に習った母の習い事を聞いて、何十年も自分の人生に影響を与えた子供の頃の習い事って凄いなと改めて感じましたね。

みんな、がんばろうね(笑)

 

 

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